『燃えよ剣 上・下』(新潮文庫):司馬遼太郎
動乱の時代、新選組副長土方歳三の生き様は、まるで樹齢1000年のしだれ桜のように逞しく、その上で積雪のようにして咲く紅の花弁のように美しかった。
私が新選組にハマったのは、中学生の時だったか。
はじめは彼らの存在を漫画で知って、それから新選組に関する本を読み漁るようになった。その当時の熱中ぶりは初恋に近い。
先日新聞で2020年5月に『燃えよ剣』が映画化されると知って、これは再読しなければなるまいと思った。
時代映画の主人公役には岡田准一が抜擢されることが多いけれど、彼は剣や銃がよく似合う。
武州多摩の田舎剣士であった土方歳三は、石田村の茨垣(バラガキ)と呼ばれていた。
触れると刺す茨(いばら)のような乱暴者であるという悪口だ。
とあるいたずらが武州随一の名人 六車宗伯という男にみつかり、これを斬ったことがきっかけで歳三の運命は大きく動きだす。彼にとって初めての殺人だった。
そうして結成した新選組で、歳三は数えきれないほどの死の裁きを繰り返し、長州藩、土佐藩ほかの憎悪の的になっていく。
局長を務めるは近藤勇だが、あの新選組を内側から創り上げたのは、まぎれもなく土方歳三だった。
誰よりもシンプルな思想で、ただまっすぐに斬りこんでゆく。
弾丸雨注のなか顔色一つ変えずに鬼神のように迫りくるこの男を見て、敵陣は恐れ戦いた。
土方歳三は自身の美学について、愛刀 泉守兼定を指し示し、沖田総司にいった言葉がある。
「これは刀だ。刀とは、工匠が、人を斬る目的のためにのみ作ったものだ。刀の性分、目的というのは、単純明快なものだ。兵書とおなじく、 敵を破る、という思想だけのものである」 「しかし見ろ、この単純の美しさを。刀は美人よりもうつくしい。美人は見ていても心はひきしまらぬが、刀のうつくしさは、 粛然として男子の鉄腸をひきしめる。 目的は単純であるべきである。思想は単純であるべきである。 新撰組は節義にのみ生きるべきである」
またその根源は、作中に2度も発言しているこの言葉にある。
「男の一生というものは、美しさを作るためのものだ、自分の。
そう信じている」
この一言で、私は土方歳三に憧れた。ただの一度もぶれることなく生きていける彼が妬ましいとさえ思うほどに。
最期の最期まで理想とする己の姿をまっとうした男は、桜吹雪のように散っていった。
そんなことが可能なのか、と考えた自分が恥ずかしかった。
ただ美しく死ぬためだけに生きるということ、なるほど人の一生に必要なことは、実はそれだけで充分だったのか。
その証にバラガキとして忌み嫌われていたこの男が、いつのまにか人々に尊敬され、好かれている。
土方歳三は、沖田総司の前ではよく笑った。若くして結核で死んだこの青年もまた、私の大好きな剣士である。結核さえ患わなければ、新選組で一番強かったのは彼のはずだ。
「しかし土方さん、新選組はこの先、どうなるのでしょう」「どうなる?」歳三は、からからと笑った。「どうなる、とは漢の思案ではない。婦女子のいうことだ。漢とは、どうする、ということ以外に思案はないぞ」
『アサイラム・ピース』(ちくま文庫):カヴァン・アンナ
孤独と絶望で生まれたおどろおどろしい生き物が、行間のそこここで呼吸しているのを感じる。
『アサイラム・ピース』は、
水面に落ちた一滴の墨と同様に、迷路のように曲がりくねって、たちまち始まりがわからなくなる。迷えば一点の光も失って、一面が闇に染まってしまう。そうなると、水面下にある光に気付けなくなる。
だから万が一にも、帰り道を見失うことにならないよう、覚悟を持って読まなければいけない。
アンナ・カヴァンのおぼつかない精神の世界に誘い込まれてしまわぬように。
役者山田和子のあとがきによると、アンナ・カヴァンは終生のヘロイン常習者だった。
幼少期の家庭状況は今でいうネグレクトで、最期は自らのベッドの上で突然死を遂げている。枕元にはヘロインがあった。
いくつかの短編の中で、「変容する家」の主人公の見解は特に興味深く、我にもなく引き込まれそうになる。一部抜粋しよう。
私のまわりでとぐろを巻くように包囲網を狭めてくる家は、私が逃げられないことを知っている。 その石の織物の内にとらえられた私は小さな虫けらでしかない。 宿主の側では、 そんなものを体内に置いておきたいなどとはまったく思わない寄生 虫。私が排出される時はまだきていない。しかし、 数ヶ月後か何年後か、家は、その凍った腸(はらわた) の内で私を消化し、 フクロウが吐く食べかすのように吐きだすだろう。
時々、思わず笑い出してしまいそうになることがある――そう、家が何の変哲もない昼の光の中で、 新しいほうの顔を見せている時には。 だまされる人などとうていいるとは思えないこんなまやかしに執着 しているなんて、まるで子供もいいところではないか。
『完全版 下山事件 最後の証言』(祥伝社文庫):柴田 哲孝
成らず者には二種類の人間がいる。
苦境を逃れようと、生きるために足掻いた結末として犯罪者となった者と、
金や権力、人望の全てをもっているにも関わらず、強欲のために自ら悪に染まる者だ。
どちらがより悪党かなんて、考えたことがあるだろうか?
すべては凍る満州の大地から始まった。地の底から洩れるように、男たちの慟哭が聞こえてくる。
『蜩ノ記』(祥伝社文庫):葉室麟
直木賞受賞後、映画化もされた名作『蜩ノ記(ひぐらしのき)』は、私が時代小説に初めて恋をした、思い入れの深い一冊である。
罪を犯し、命の期限を定められた男、戸田秋谷(とだ しゅうこく)の目付役として嘱託された壇野庄三郎(だんの しょうざぶろう)は、彼もまた切腹を免れこの地に送られてきた罪人の身の上だった。
三浦家譜を完成させた10年後の切腹の日を前に、秋谷が逃げだしてしまわぬよう見張るつもりでやってきた庄三郎だったが、会った瞬間から秋谷の公明正大な人柄に惹かれ、おのずと敬慕の情を寄せる。
このひとは、おのれの命の期限を定められてもなお、
自分の生き方を変えていない。
戸田家との出逢いで、凜々しく誠実な人となりへ成長していく庄三郎の姿と、周囲の人々の想いの花が、読者の胸の中で次々と芽吹いていく。
秋谷を知った者は、みな良くも悪くも変わっていった。
妻織江と秋谷の間に結ばれた信頼という名の強い絆の糸は、清らかで甲斐甲斐しく、憧れるほど穢れがない。
秋谷の息子郁太郎は、幼いながらも雄々しく、小さな身体には大人顔負けの武士(もののふ)の心を宿している。
そんな郁太郎の親友で、源吉という百姓の少年は、これがまたとんでもなく良い奴で、大人こそ見習うべきにふさわしい、実らしい人物なのだ。私は源吉が大好きである。
一方、庄三郎は秋谷の娘薫に想いを寄せていた。
ある日突然、死に神のようにやってきた庄三郎の恋心を、薫は受け入れることができるだろうか。
美しい家族の絆と男の友情が、なにかを守りたいと願う魂の篝火が、力強い太鼓の震音とともに燃え上がっていく。
不条理の世で、彼らは幸せそうだった。
今からでも、私も同じように生きられるだろうか。
@ながれ
『白い果実』(国書刊行会):ジェフリー・フォード
ジェフリー・フォードの『白い果実』は、悪に満ちた独裁者の世界から始まる。
世界幻想文学大賞にふさわしいこの驚異的な小説を、日本幻想文学の巨匠である山尾悠子が訳しているのだから、読まないという選択肢はなかった。
原作の世界観を崩すことなく訳すことができるのは、彼女以外にいなかっただろう。
東の帝国には、独裁者ビロウが自らの内面を具現化して創り上げた「理想形態市」がある。
そこから辺境の町アナマソビアの教会で、大切に保管されていた「白い果実」が盗まれるという重犯罪が発生し、観相学者クレイが犯人捜しのために派遣された。
鉱山で発見されたという白い果実は夢のように甘く、食べると不死身になれるという噂がある。
ビロウの右腕でもあるクレイは冷酷無比な男で、この帝国の法律そのものともいえる観相学を振りかざし、人々を物のように観測していく。彼にとって、自分以外の人間のほとんどは醜い蛙でしかなかった。
私にとって鼻は叙事詩、唇は芝居、耳は巻を重ねて人類の転落を書き綴った史書に等しく、また双の眼に至ってはあるじの人生そのものだ。(クレイ)
無意識にも過ちを繰り返してきたクレイがある日、とうとう取り返しのつかない恐ろしい罪を犯してしまう。
南国ドラリス島の硫黄採掘場へ流刑となり、少しずつ変わっていく姿をみてもなお、読者はクレイを許しきれないかもしれない。
けれど、気付けばクレイを応援している自分に驚くだろう。
人狼、不死身の果実、悪魔、改造人間、バーテンダーの猿、石化した人間……『白い果実』に含まれたこれだけの材料を並べただけでも、幻想文学好きにはたまらない詰め合わせである。
それからこの物語が、三部作のうちの一作に過ぎないということも忘れてはならない。
続きがある、と思うだけでも、なんだか胸がはずんでしまうではないか。
@ながれ