地底人とりゅう

「地底人とりゅう」は、日々の読書本を記録していくために開設した個人ブログです。書店では入手困難な古書の紹介もぽつぽつと投稿しております。

『袋小路の男(講談社文庫)』 :絲山秋子

 

めちゃくちゃ面白い本を読んだあとに、これまたとんでもなく面白い本にすぐ手を伸ばすのは贅沢だ。

軽井沢で買ったりんごジャムをトーストの上に塗りたくり、その上からスライスしたほくほくの焼きりんごを重ねて食べるようなものである。

毎日の贅沢に疲れてしまうのはもったいない。

そんな私のとっておきの休憩方法が、絲山秋子である。

 

袋小路の男 (講談社文庫)

袋小路の男 (講談社文庫)

 

 

休憩用に選ぶ本は面白すぎてもいけないけれど、面白くなくてはならない。

飾らない文章でいて、うっとりする描写、そしてできれば、何も起こらないものがいい。

絲山秋子の『袋小路の男』には、全ての条件を備えた3つの短編が収められている。

 

表題作の「袋小路の男」では、「あなた」へ片想いをしている「わたし」の視点で綴られていく。

そんな男のどこが良いの? と思わず言いたくなるほどの、脈ありの気配が微塵も感じられない、顔が好みというだけの「あなた」を「わたし」は一途に想い続ける。

気のおける友人のように会話に花が咲くでもなく、会えば眠そうにあくびをするだけの「あなた」と、献身的に尽くす「わたし」。

その奇妙な距離感は、一見退屈な文章になりがちな二人の間に絶妙な居心地のよさを与えている。

 

2つめの短編「小田切考の言い分」は一人称ではなくなり、まるで二人と同じ距離感をもって彼らの心境を聞いているような気分になった。

それまでひどい男だなあと思っていた小田切考(あなた)にも、彼なりの言い分があり、健気だなあ、と思っていた大谷日向子(わたし)にも落ち度があったことを知る。

そして、全く脈なしとも言い切れない関係だということに読者は気付く。

そんな二人の距離は、カウンターを挟んで酒を飲むくらいが丁度いい。

彼らの絶妙な距離感を、実に美しく表現している文章を、いくつか引用しよう。

 

私達は指一本触れたことがない。

厳密に言えば、割り勘のお釣りのやりとりで中指が触れてしびれたことがあるくらい。手の中に転がりこんできた10円玉の温度で、あなたの手があたたかいことを知った。 

 

飾らない文章の中で「10円玉の温度」を出してくるあざとさがたまらない。

 

さらに、一緒に酒を飲んで泥酔した小田切を大谷は自分の家に誘うのだが、

その時の距離感がまた絶妙なのだ。

 

私は文庫本を片手に番茶を飲みながら、あなたの目がさめるのを待っている。襲ったりはしない。せまったりはしない。あなたを袋小路の奥に追い詰めるようなことは一切しない。

静かな気持ちだ。

 

そんなじれったい二人を、いいなあ、たまらんなあ、と酔いしれながら私は読んでいる。

 

3つめのの「アーリオ オーリオ」は全く別の短編だが、これもまた恋心があるかないかの地に足つかない距離感が素晴らしい。

中学生の美由は、星オタクの叔父に興味を持ち連絡先をねだる。

すると叔父は「手紙なら良いけど…」と思ってもみなかったことを口にしてしまう。

何度めかの文通で、美由はある日、ポストに投函してから3日で届く手紙を3光日の距離にある星に例え、「アーリオ オーリオ」と名付けるのだ。

11光年の位置になる今のプロキオンの星座の光が11年後に見えるのと同じように、美由が3日前に手放した手紙を、叔父は読むことができる……はあ。

この記事を書いている間も、「あ~~もう、たまらん!」と悶えてしまいそうになるのを堪えてキーを打ち続けるのはもう無理だと感じる。

絲山秋子の小説の美しさに気付かないのはもったいない!

 

 

@ながれ