地底人とりゅう

「地底人とりゅう」は、日々の読書本を記録していくために開設した個人ブログです。書店では入手困難な古書の紹介もぽつぽつと投稿しております。

『荒城に白百合ありて』(角川):須賀しのぶ

『荒城に白百合ありて』は、「幕末版ロミオとジュリエット」と謳われている。

恋愛の障害とは、惹かれ合うふたりの周囲に存在するものだと思っていた。

自身の葛藤などよりもずっと深い、果実の中心に存在する黒い種子のようなもの、そんなものが障害となり得るとは。

 

荒城に白百合ありて

荒城に白百合ありて

 

 

江戸時代末期、黒船来航や変革により緊迫した情勢の中、会津終焉の息吹は足下に漂う冷気のように刻々と、そして明確に会津の風に沁み透っていった。

けれど会津の信念を受け継がれてきた女たちにとって、そんなことは絶望に暮れる理由になることはない。

次第に鬱蒼とした風は強烈な臭気とともに敗残兵の群れへと変わり、終焉の気配は目に見えるほどに色濃くなっていった。

高名な会津婦人である鏡子は、薙刀で義母の腹を裂いた後、実の娘、幸子にも自害するよう穏やかに説きふせる。

自らも会津の女として誇り高く死ぬことに一縷の迷いはなかった鏡子だが、老僕が持ってきた一通の手紙を目にして動揺してしまう。

鏡子の魂が求めているものは、決して結ばれることの許されない薩摩藩士の青年・伊織である。

若くして昌平坂学問所で学ぶ俊才、伊織と、美しい会津の女である鏡子には、秘密の共通点があった。

今では「安政の大地震」と呼ばれる、直下型の大地震の災禍の中で出逢ったふたりは、自分たちがこの世でたったふたりの同じ生き物だと認め合う。

その時のふたりの姿を一部抜粋する。

 

 >鏡子

生まれてはじめて、自我が飲み込まれてしまうほどの欲求を感じた。
秩序は瓦礫の下で押し潰され、宵闇に塗りつぶされた世界にはあちこちで炎が生まれつつあった。破壊の中で漂うように生まれ、瞬く間に勢いを増していく炎の、なんと美しかったことか。
ああ、世界は生きている。断末魔の叫びをあげ、身をよじっている。

 

 >伊織

 

玻璃のように美しい、だが人形のように虚ろではない。感情もない。もっと原始的な、ただ一色の色だけがそこにある。

 

 

朱色の炎と轟音を従え、舞うように歩くあやかしは、いっそ涼しげだった。優雅だった。おぞましく、美しかった。
今、伊織に聞こえるのは、自分の脈動だけだった。悲鳴も家が崩れる音も、何もない。そして見えるものも、目の前の少女だけだった。忙しなく行き交う人々の姿は、いつしか消えていた。

 

冒頭からふたりはサイコパスなのだろうと感じていた私は、読み進めるにつれてその認識を改めた。

他人の死や、燃え上がる民家を見て興奮してしまうような生き物は、実のところ現代人に多いのではないだろうか。

命の値打が低かったこの時代、人々の命はもはや自分のものではなかった。

ところが現代には、伊織や鏡子のような生き物が都会を中心に続々と繁殖し、恥ずかしげもなく足を生やして歩いている。

その証拠に、TBSでクレイジージャーニーのような番組を放送すれば、たちまち我こそはファンだという者が続出したではないか。

『荒城に白百合ありて』は、そんなサイコパス同士の恋愛小説と一括りにいうにはもったいないほど、時代小説として素晴らしい。

どうして日本の女性作家の描く世界は、いつもこんなにも心が惹かれてしまうのだろう。

会津は陥ちる。

けれどふたりの生き様は、「勝てば官軍、負ければ賊軍よ 命惜むな 國のため」という狂歌の潔い真理を訴えかけてくる。

たったの4度しか会うこのとなかったふたりの恋は、熱いほどに冷たく、優美なほど異常で、類を見ない恋愛小説だった。

 

 

@ながれ