地底人とりゅう

「地底人とりゅう」は、日々の読書本を記録していくために開設した個人ブログです。書店では入手困難な古書の紹介もぽつぽつと投稿しております。

『開かせていただき光栄です―DILATED TO MEET YOU―』(ハヤカワ文庫):皆川博子

第12回本格ミステリ大賞を受賞した『開かせていただき光栄です』は、総毛立つほど面白い、まさに崇拝すべき一冊である。

さりげない伏線に何度でも騙されたい、あの時の、魂が震えるような昂ぶりをもう一度味わいたい、そんなマンネリ気味のミステリ好きには、これを読まずして飽きたとは言わせない。

全てが落着したその後にこそ、皆川博子の才腕は、それとはなしにヴェールを落とす。

読者は虚偽に戸惑い、真実に怯え、その先にうろたえる。

やっぱり皆川博子の本は格別に美しく、惜しみなく恐ろしい。

 

 

18世紀ロンドン、解剖学が先端科学であると同時に、偏見にも晒された時代。

外科医ダニエル・バートンの解剖教室で、墓あばきから不法に買いとった貴重な妊婦の屍体を解剖中、治安判事が来訪を告げる。

5人の優秀な弟子たちが素早く屍体を隠し、治安判事を迎え入れた。

賄賂を与えて判事を帰らせようやく屍体を隠し戸から引き出すと、どういうわけかそれは妊婦の屍体ではなく、四肢の切断された少年の屍体へと姿を変えている。

もともとあった妊婦の屍体もみつかり、さらには顔面が破壊された成人男性の屍体も暖炉の底から吐き出された。

一体犯人は誰なのか? 彼らはなんのために殺されたのか。なぜ、四肢を切断する必要があったのか。顔が潰された男は誰なのか。

盲目の治安判事、ジョン・フィールディングが突き止める。

 

師弟の絆、資質に優れた者への嫉妬、貪欲な悪と思い上がり、それらを皆川博子ほど見事に表現することのできる作家は、他にどれほどいるだろうか。

繰り返される逆転試合はラストまで気が抜けない。

これは復讐と愛情の鎖で繋がれた、最高の道化芝居だ。

 

 

@ながれ

『散り椿』(角川文庫):葉室麟

椿は普通、首が落ちる様を思わせるとして武家に嫌われる花である。

散り椿は、花ごとぽとりと落ちるのではなく、花弁が一片(ひとひら)ずつ散っていく。

秀吉が寄進した五色八重散椿(ごしきやえつばき)の植えられた地蔵院の境内を舞台に、男と女の想いが咲き、次に咲く椿を想って散っていった。

 

散り椿 (角川文庫)

散り椿 (角川文庫)

  • 作者:葉室 麟
  • 発売日: 2014/12/25
  • メディア: 文庫
 

 

葉室麟が織りなす、優しい嘘と、哀しい思い込みの物語散り椿は、過去に岡田准一主演で映画化もされている。

 

かつて一刀流平山道場の四天王のひとりと謳われた瓜生新兵衛(うりゅうしんべえ)は、上役の不正を訴えて藩を放逐され、病弱の妻と共に暮らしていた。

妻の篠(しの)は亡くなる少し前、新兵衛に最期の願いを託す。その願いとは、新兵衛の旧友でもあり篠にとってはかつて恋心を抱いていた、榊原采女(さかきばらうねめ)を助け、その庭に咲く散り椿を自分の代わりに見てほしいというものであった。

当然新兵衛は嫉妬したが、大切な篠の願いを叶えるために、自らの気持ちを押し殺して帰藩する。

新兵衛が再び姿を現したことで18年前の秘密が露見してしまうことを恐れ、藩が動きだす。

自分が犯人だとわかっていながら、嘘を突き通すしかできない者と、誤解される者。もしや自分が犯人ではないかと恐れる者、罪をかぶって自害する者。彼らには、友情があったからこその過ちがあった。

そして、ついに約束の椿が散る。

四天王のなかでも采女と新兵衛は龍虎と呼ばれるほど、剣の腕では頭抜けていた。

果たして、篠を想うふたりの男の結末は如何なるものか。

ひとの想いは、たとえこの世を去ろうとも、大切なひとの心のなかにはいつまでも咲き続けることができる。

葉室麟の描く人物は、いつも心が美しい。

 

 

@ながれ

『八朔の雪―みをつくし料理帖』(ハルキ文庫):高田郁

こんなに優しい小説を読むのは久しぶりだった。 主人公 澪のつくった酒糀汁が喉を通って心を満たし、身体がじんわりと温まっていく。

「みおつくしシリーズ」は実は番外編を除いて全10巻の長編小説で、高田郁は私の尊敬する漫画原作者でもある。

第一巻となるこの『八朔の雪』だけでも一冊の本として十二分に楽しめるため、長編小説に抵抗がある人でも気軽に挑戦できる証拠に、巻数表示はなく、タイトルも全て違う。時代小説はちょっと、という人には漫画で読むのもオススメだ。

さらには2020年秋には映画化もされるそうだから、みおつくしシリーズの魅力は折り紙付きである。

 

 

 

漫画でも映画でも、料理をたまらなく美味しそうに表現できている作品は、必ず注目を浴びるものだ。例えばジブリラピュタの目玉焼きトーストや千と千尋に出てくる謎肉)、比較的最近のもので言えば「グリーンブック」の二つ折りビックピザ、最近アニメ化された「空挺ドラゴンズ」の龍肉料理なんかもたまらない。

視覚的ハンデのある小説で、如何に読者の喉をならすことができるのだろうかと手に取ったのが、『八朔の雪』だった。

はて、八朔の雪とはなんだろう?

これは作中にもあるが、八(八月)朔(ついたち)に吉原の遊女たちが白無垢を着ている情景のことを言うのだそうだ。

残暑厳しい季節に雪を思わせる姿、それが、心太(ところてん)の上にさらさらと振りかけた唐三盆の砂糖に似ていた。

京では心太に砂糖をかけて食べるらしい、ということを知らなかった私は、まるで雪の結晶のように輝く心太を想像してごくんと唾を飲み込んだ。

普段荒っぽいものばかり読んでいると、時々出逢う登場人物たちの優しすぎるぬくもりが、合わせ出汁のようにすっかり心に染み入ってしまう。私はさながら煮汁に浮いたはんぺんだ。

これはいい、すごく面白い。と、通勤中に読み切って、会社に着くと同時にまっさきに同僚に薦めてしまった。

 

作中には、澪がつくった秘伝の合わせ出汁の引き方も紹介されている。

半日ほど水に浸けておいた昆布をその水ごと火にかけて、沸騰する前に昆布を引き上げる。そこへ削り立ての鰹節を入れ、ゆっくりと十かぞえて火から離す。削り節が沈んだら布巾で濾す。

 その他にも、美味しそうな料理の全てが最後にレシピになって添付されているのがなんとも嬉しい。

 

料理は、料理人の器量次第。

私たちが本から学ばなければならないことは、まだまだたくさんある。

 

 

@ながれ

『ぼんくら 上・下』(講談社文庫):宮部みゆき

『ぼんくら』とは、頭のぼんやりした怠け者のことである。

四十なかば、ぼんくらだけれど心根の優しい親父、井筒平四郎(いづつ へいしろう)は、続けざまに人が立ち退いていく町の様子に違和感を覚えていた。

事情があって新しく配属された佐吉という名の若い差配人が、自分の力不足のせいだと落ち込む姿を見て気の毒になり、平四郎はとうとう重い腰を持ち上げる。

と言っても推理小説の常ならば、名探偵ぶりを発揮するはずの当の主人公は根っからの面倒臭がりだもんで、捜査はほとんど人任せ、烏任せで事はすすむ。

見ているこっちが苦笑しているうちに、あまりに頼もしい仲間たちの助力を得て、事件は少しずつ輪郭を現していく。

 

ぼんくら(上) (講談社文庫)

ぼんくら(上) (講談社文庫)

 

 

ぼんくら(下) (講談社文庫)

ぼんくら(下) (講談社文庫)

 

 

宮部みゆきは女性を描くのが上手い。

絶世の美女なのにド近眼で牛乳瓶の底のみたいな丸眼鏡をかけたみすずは慌てんぼうで可愛らしく、煮売り屋のお徳は気が強いが情は深く、口うるささは優しさに溢れている。

お徳の素直になれないか弱さを見抜いているおくめは、元遊女で怠け癖はあるものの、実は誰よりも人間が大きい。憎まれ口を叩く相手にさえ愛情深く、親身になれる。

その上自分の辛さはおくびにも出さず、明るく笑い飛ばすことのできる、気だての良い女だ。

一方、『ぼんくら』の登場人物のなかでも人気を博している弓之助という頭の切れる美少年については、おつむの弱い私からしたら賢いにしても度が過ぎるだろうというのが正直な感想である。

子どもらしからぬ知性を補うようにして、少年には「毎夜おねしょをしてしまう」愛らしい弱点があるのだが、12才(か11才だったと思うが)の年齢は、「おねしょ」をしてしまうには大きすぎる気がしてしまう。

私が小6か中学1年生の頃、クラスメイトの誰かは人知れず「おねしょ」をしていたんだろうか。非常に可愛い設定だけれど、なんとなく違和感が拭いきれない。

登場人物の誰か一人でもそんな違和感を代弁してくれていれば、読み手側が違和感を感じることはなかったように思う。まあ何はともあれ私が捻くれているだけなのだ。

『ぼんくら』は人情ものの、非常に人気度の高い時代ミステリー小説である。

ぼんくら者の平四郎ならでは結末に、時にはほっとひと息ついてみてはどうだろうか。

 

 

@ながれ

『忍びの国』(新潮文庫):和田竜

笑って泣ける忍者小説忍びの国の主人公無門(むもん)は、なんと性格、容姿、どちらにおいても格好良いとは言いがたい人物である。

だのになんだか憎みきれない性格は味わい深く、しまいには「意外とやるじゃん」どころか、めちゃくちゃイケメンに見えてくるから面白い。

 

忍びの国 (新潮文庫)

忍びの国 (新潮文庫)

  • 作者:竜, 和田
  • 発売日: 2011/02/26
  • メディア: 文庫
 

 

作中には、忍者好きにはたまらない忍法豆知識が惜しげもなくふんだんにあしらわれている。リアリティと独創性が加減良く絡み合い、非現実的すぎないところが痛快だ。「NARUTO」派と「ONEPIECE」派の派閥ができていた中学時代、断然「NARUTO」派だった私にとってはこれ以上ない娯楽である。

 

冒頭、誰が主人公なのかわからないまましばらく人物紹介が続くが、無門が登場することで物語は大きく足を運びだす。

織田信長の次男である信雄(のぶかつ)は、ある日父親に認められたい一心で、自分たちだけで伊賀国忍びの国)に攻め入ることを決意する。

戦国期の伊賀者は「武士以下あるいは以外の者」と見なされており、剣士からしてみれば姑息な弱者として卑下されていた。

そんななか信長だけは、伊賀の国境に接する2大国をも制圧しているにも関わらず、伊賀に対しては過剰なまでに慎重で、これまで一度も手を出していない。足りない頭でせいぜい考えた信雄は、これをまたとないチャンスだととらえたのである。

 

ところが、織田軍が攻めてくることを知った忍たちは、伊勢者どもに伊賀国を捕られてなるものかっ……ということにはならなかった。

そこは流石の伊賀者で、揃いも揃って国を捨てて逃げだそうとしていたのである。

命を懸けて戦った自分たちに、誰がお金を払ってくれるのかと言うのだ。

現金な伊賀者たちにとっては、お金こそが全ての原動力であった。もちろん無門も例外ではない。それどころか彼にはお金がないと非常に困るやっかいな理由がある。

当時の忍びが如何に卑怯者だったかを裏付ける理(ことわり)が、何箇条もある忍びの掟のなかに残っているようだ。

 

「己が難を人にゆづるハいやしき事也とハ世の常の事、忍はくるしかるまじきもの也」

自分の災いを他人に押し付けるのを卑しいと考えるのは普通の人間で、忍びはそれをやっても構わないとする。

 

そんな残忍酷薄(残忍の字に忍びが使われているのはこういうことからか)な伊賀者たちではあるが、彼らの会話からは和田竜ならではのブラックユーモアが感じられる。

主人公の無門を間の抜けたキャラクターにすることで、読者が言葉ほどの嫌悪感を嗅ぎつけることがないように、多少コミカルだとさえ思えるように巧みに工夫されているではないか。例えばこんな掛け合いがある。

 

文吾「俺はな、殺しがしたいんだよ」

無門「うわあ、嫌(や)な趣味してんなあ」

  

 

いよいよ戦になった時、読者はきっと笑うだろう。

なにしろ彼らは全員、ちゃっかり者の金の亡者なのだから。

 

 

@ながれ