『雲をつかむ話(講談社)』:多和田葉子
登場する人物の仕草や表情、風景描写があまりにも細かく鮮明で、私は読み始めてからすぐ、もしかしたらこれは事実なのかもしれない、と感じた。
あくまでフィクションとして出版されているこの本の、どこまでが現実で、どこからが幻想なのかわからない。
まるで雲の中にいるように目の前は灰色に霞んでいて、無数の繊維が網膜を遮っているようだ。
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走ったような気配を感じた。
『雲をつかむ話』では、主人公が直面した犯罪者との出逢いのひとつひとつが、思い出の中の鍵付きの引き出しをこっそり開けるようにして語られていく。
「朝、白いリボンのように空を横切る一筋の雲を見ているうちに、そんな出逢いの一つを思い出した」
という一節から始まり、物語は本を包んだ不格好なリボンと同じように結ばれる。
リボン雲がたなびいた瞬間から私はずっと、実話か作り話かもわからない雲のような話しに魅了されっぱなしだった。
だから最後に、「それは他人の話でしょう」と女医の言葉が引き戻してくれたのは、主人公だけではなかったはずだ。
いくつかのショートショートが展開されていく中で、飛行機の離陸の瞬間、雲を抜けて、青空が見えた時のその描写に、私は一歩も動いていないのに、体がふわっと軽くなったのを覚えている。
どうやら主人公(著者)は、犯罪者は自分とは全く関わりのない、別の世界で生きている特殊な人間だと思い込んでいる人が、心底嫌いのようだ。
誰もが思いもよらない理由で鉄格子の向こう側の住人になる可能性がある。
それも本人が思っているよりもずっと高い確率で。
そう憤っている主人公の考えには、私も本田靖晴の『誘拐』を読んだからこそ強く共感できるものがある。
『雲をつかむ話』に登場する犯罪者たちはみな、とても面白い考え方をする人が多かったようにも感じた。
例えばそれは字の覚え方だったり、無賃乗車をする理由、他人の私物を無断で使用したわけを語る時に、隠しようもないほど露わになる。
その点では、作家として活躍する著者にも遠からず近い部分があるからこそ、主人公は犯罪者を寄せ付けやすい体質なのかもしれない。
描く話しはいつも読者を迷子にさせながら、最後にはしっかり出口を用意してくれる。
だからまた私も、何度も雲の中に迷いこみたくなってしまう。
@ながれ