地底人とりゅう

「地底人とりゅう」は、日々の読書本を記録していくために開設した個人ブログです。書店では入手困難な古書の紹介もぽつぽつと投稿しております。

『超高速! 参勤交代』(講談社文庫):土橋章宏

参勤交代による大名行列のうち、ほとんどの人員はエキストラであった。

『超高速! 参勤交代』は、当時全国的にみても石高(米のとれ高=経済力)の低い、とある小藩の血の滲むような参勤奮闘劇である。

 

超高速! 参勤交代 (講談社文庫)

超高速! 参勤交代 (講談社文庫)

 

 

ある日、参勤交代の長旅を終えて帰郷したばかりの湯長谷藩に、「本日より5日以内に参勤交代せよ」という無情極まりない命が下される。

頭首の内藤政醇(まさあつ)は湯長谷の民を守るため、無理難題な参勤交代をなんとしてでも達成し、小藩を切り捨てようとする松平信祝(のぶとき)に一矢報いる覚悟を決めた。

どんなに急いでも10日はかかる旅を5日(既に知らせが届いた時には1日目なので実質あと4日)で遂行するには、山を越えるしかない。

 その名の通り、超高速! 参勤交代ミッションを成し遂げるための、前代未聞の時代小説、これが面白くないわけがないであろう!

 ちなみに映画の『超高速! 参勤交代』とこの本との関係は、原作でもなければノベライズでもない。そのため内容も違うわけだが、ただひとつ自信を持って言えることは、本のほうが俄然面白いぞということだ。

ところで、「参勤交代」とは即ちなんなのか。そのことについても本書でわかりやすくおさらいできる。

 

参勤交代とは、全国の大名を定期的に江戸に出仕させることにより、藩の財政に負担を与え、幕府への叛乱をおさえる制度である。<参勤>とは一定期間、将軍のもとに出仕することで、<交代>とは暇を与えられて領地に帰り、国許の政務を執ることだ。通常、地方の大名は一年おきに江戸と国許を行き来した。江戸に一年、国許に一年と藩主は行き来する。


例外的に、松前藩対馬藩など、対外関係上、重要な位置にある藩は、三年から五年に一度の出仕だけで許されることもあった。


参勤交代にかかる費用は膨大で、たとえば加賀百万石ともなると大名行列は3000人を超え、宿泊費や川越え費用、行く先々での接待に対する返礼、さらに将軍とその世子、奥方への献上品や老中を始め、若年寄、御側用人など幕府要人への進物なども加えると、費用は3000両近くにもなった。藩財政への負担はこのように相当なものである。


しかし、参勤交代は武家諸法度の実質的な第一条として掲げられており、参府を渋ったり、遅れたりする大名は厳しく処断された。
この費用捻出のため、莫大な借金を抱えた藩も多い。(本文より)

 

福島県いわき市に鎮座する湯長谷藩は、つまるところ、福島から東京まで4日で走り抜けなければならない。

石高1万5千石の湯長谷藩は貧乏極まりなく、これをたったの8人で参勤するはめになるのだから、それはもう死に物狂いにもなるわけである。

 『超高速! 参勤交代』の讃えるべきは、歴史をなぞるだけの時代小説とは違い、虚構と事実が渾然となった独自のストーリーをクリエイトしているところだ。

笑って泣けて読みやすく、著者自身が小説にしかできない醍醐味を嗜んでいる姿が有り様にうかがえる。

時代小説が苦手な人でも、読んでしまえば時代小説を好きになるきっかけになるかもしれない。

 

 

@ながれ

『悪童日記』(早川書房):アゴタ・クリストフ

物語の底気味悪さは、童話のような読みやすさであればあるほど際立ってくる。

悪童日記』はタイトルどおりの物語だが、その日記を綴っている悪童は、まだ幼い双子の少年たちだ。

二人が言う「ぼくたち」は一人称として使われていて、何をするにも一緒に行動していく。

戦禍のなか彼らが母親に連れられて辿り着いた先は、風呂もトイレもない、孤独と悪臭の染みついた祖母の家だった。彼らの日記はここからはじまる。

  『悪童日記』は冒頭から、依って立つべき正常のない物語なのだ。

 

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

 

 

町民から<魔女>と呼ばれる祖母には、過去に夫を毒殺したという噂がある。

悪態はつくが働き者のおばあちゃんに倣って、双子も非常によく働く。

どこか大人びている二人の子どもは、自力で生活を整えていく。

たちどころに読み書きを覚え、町民たちからの罵詈雑言に耳を慣らし、祖母からの暴力に耐えるために、痛みに慣れる訓練もする。次々に新しい国の言語を学び、あらゆる手段で金も稼ぐ。交渉術などお手のもので、大人を相手に物資を克ち取る。

会得するもののなかには子どもが学ぶべきではない残忍な儀式もあるけれど、彼らは淡々と生きる術を身につけていく。 

感情や主観は一切省き、自分たちの日記には、ただ事実だけを記していった。

純粋な子どもたちだからこそ導きだした、彼らの解決手段が恐ろしい。

 

ハンガリー生まれのアゴタ・クリストフは、幼少期を第二次大戦の戦禍の中で過ごし、1956年には社会主義国家となった母国を捨てて西側に亡命している。

 

悪童日記』は歴史小説ともとれるが、その年代、国名、収容所に向かう人々の列の正体などは伏されていて、どちらかというと寓話に近い。

そのひとつひとつを著者本人の幼少期と照らし合わせれば、自然とヨーロッパ現代史が浮かび上がってくる。

支配者がナチスからソ連へ変わったところで、子どもたちにとって不条理な境遇に置かれていることは何も変わらない。

賢く生きていく双子の素行は、大人たちへの復讐ともいえる。

当時の子どもたちは、この美しい双子のように強くいられただろうか。

彼らを怖いと感じてしまうのは、戦争を知らない現代の私たちが豊かな恵みを受けている確たる証拠なのだ。

 私はもちろん、戦争の悍ましさを知らない多くの読者は、彼らの日記を自分とは無関係の出来事だと思って読んでいるからこそ得体の知れない狂気を感じる。

私たちは、本当はちっとも無関係なんかじゃないことを、知ってしまうのが怖いのだ。

けれど、目を反らしていたいと願う私たちを、双子の少年たちは赦してはくれない。

忘れることも同罪だと、ふたりの声が聞こえたような気がした。

 

 

@ながれ

『御社のチャラ男』(講談社):絲山秋子

チャラ男というと、軽いノリであちこちに手をだす猿のような男のことをいうのだと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。

彼らはなんだって実力の賜だと勘違いしてはうぬぼれ、スマートでないことを嫌う。

初めのうちは尊敬の眼差しを向けてもらえるのに、自分の長所や功績を意気揚々と語ってやりすぎる。

ところが自分の方から先に、誰かを嫌うことは決してない。

『御社のチャラ男』はそんなどこか憎みきれない愛すべきチャラ男を代表して、「三芳部長」という軟派男を多面的に分析することのできる、極めてユニークな本である。

 

御社のチャラ男

御社のチャラ男

 

 

皆が我慢している一言を、事もなげに言ってしまえる人はチャラ男属性の素質があるようだ。人々は憧れ、嫉妬し、バカだと笑う。

そういえば私も、過去に何人かのチャラ男に遭遇している。

不思議なことにチャラ男たちは、必須アイテムのように「複数人の友人(あえて言おう友人と)と写った若い頃の自分の写真」を、常に持ち歩いていた。

当人は見慣れているであろうそれを見せたいからわざわざ持ってきたくせに、「たまたまみつけちゃって懐かしくって」という演技は絶対に欠かさない。

チャラ男のひとりが入社してきた日、社内のポスターを貼り替えていた私に、ちょっと上から目線でからかうように「高い高いしようか?」と言ってきて、会って二秒で嫌いになった覚えがある。

そのことを誰かに言ったわけでもないのに、彼は一週間もしないうちに全社員の「共通の敵」となっていた。

二年未満で何社も転職してきたという彼は、どこに行っても居心地の悪さを感じていたのかもしれない。そうしてまた、「次こそはうまくいく」という夢を抱いてどこかへ飛んでいってしまう。

人のことは大好きなのに、どうしても嫌われてしまう蚊みたいな人だった。

しかし彼は、人を疑うことを知らない。

『御社のチャラ男』の三芳部長もまた、最後まで妻の嘘を信じて疑うことはなかった。

チャラ男たちはみな心根は優しく、寂しがり屋で、一途なのだ。

 

そうは分かっても、彼の異常に気付いてしまった社員たちの証言がおかしくて、節々で笑ってしまう。

 例えばこんなものがある。

 

私は忙しくて熱くてすごくごちゃごちゃした世界に住んでいるのに、かれは平和で涼しくて静かな場所で過ごしているようなものでした。きれいな水槽に住んでいる熱帯魚みたいに快適そうでした。

 

この他にも、「会社も地獄、家でも地獄」の平社員の見解は、多くの人が共感できるものではないだろうか。

 

ここにも地獄がある。地獄というものは回避しても回避しても、出現するものだ。一丁目を過ぎたと思ったら二丁目があり、三丁目を避けたつもりが四丁目に入ってしまうような場所のことだ。会社の地獄から逃れて、夏の熱地獄からも通勤地獄からも解放されて迷い込んだここは地獄の六丁目。

 

そんなチャラ男こと三芳部長も、なかなか胸を突くようなことを言う。

まるで、自分の末路を予感しているかのような切ない一言が、誰かに肩を叩かれたような悪寒を残して消えていった。

 

「運命は必ずそのひとの弱点を暴きにくる」

 

 

 @ながれ

『女の甲冑、着たり脱いだり毎日が戦なり。』(文春文庫):ジェーン・スー

女たちは日夜、心と身体にゴテゴテの甲冑を身につけて生きている。

それを私自身に当てはめてみれば、青白い肌を血色良くみせるための口紅、地味だけれど上質な服、現代アートではなく、歌川国芳や広重の浮世絵を好むところや、男よりも短い黒髪もそうだと言えるかもしれない。

口紅は根暗な表情をいくらか社交的にみせてくれるし、地味で上質な服を着るのには、外見を取り繕うのは嫌だけど、だらしないと思われるのはもっと心外だからという理由がある。

浮世絵が好きな気持ちは実直なつもりでも、時代に流されたくないという頑固な素顔は隠しきれない。

昔はコンプレックスだった太い眉は、ばっさりカットした髪といっしょに劣弱意識も切り落とした。不幸や先天的特質には屈しない、意志の強さを髪で体現したかったのだ。

蓼食う虫も好き好きで、みな様々な甲冑を心のクローゼットの中にしたためている。

あの好きもこの好きも、誠実かと聞かれるとちょっと怪しい。

大人の女にみられたい、個性的だと思われたい、嫌われたくないあの人のため。

あー、女って面倒くさい!

 

女の甲冑、着たり脱いだり毎日が戦なり。 (文春文庫)

女の甲冑、着たり脱いだり毎日が戦なり。 (文春文庫)

 

 

ジェーン・スーの『女の甲冑、着たり脱いだり毎日が戦なり。』は、くすりと笑える女性向けエッセイ集だ。

げらげら笑いたい時に観るお笑い番組のような本が原田宗典のエッセイなら、人知れず抱えた悩みをバカらしいと笑い飛ばしてくれるのがジェーン・スーのエッセイである。

 彼女の考察はいつも秀逸で、それはさすがに捻くれすぎだと口では言いたくなるような体験談も、内なる自分はヘッド・バンキングさながらに首を縦に振っているのだから示しがつかない。「最高の日曜日」なんて、自分の日記かと思ったくらいだ。

私だけじゃない。

あなただけじゃない。

ありのままでいられないのは、悪いことなんかじゃない。

だけど、ありのままの姿でいられる人は、やっぱり眩しくて憧れてしまう。

各々が武士たる野心を胸に抱いて、戦場に赴いている。

この本を読むと、上手に隠しすぎていつの日か意識の外に置いていた、ありのままの自分の姿を嫌でも思い出してしまう。

ジェーン・スーはそんな、甲冑を脱いだ愛されない女たちをも肯定してくれる。

ひと昔前に女たちがざわついた、「東京タラレバ娘」を読んだ時のような親近感。

勇敢な仲間たちよ、ジェーン・スーにつづくのだ。

 

 

@ながれ

『最高の任務』(講談社):乗代雄介

読むたびに私は、乗代雄介の甘い情景描写に舌鼓を打ってしまう。

一本の木が生えているだけの寒々しい空間の中でさえ、きっと彼の双眼は、葉の虫食い穴や、割れ目の間で咲いている一輪の小さな花の存在以上の、鮮やかな景色をみつめている。

私は鈍行列車の車窓から流れる風景のように、彼の眼から文章となって映し出された紙上の世界を眺めているのだ。

 

最高の任務

最高の任務

 

 

『最高の任務』には、二作の中編小説が収録されている。

 そのうちの一作である「生き方の問題」は、二歳年上の従姉に対して、「僕」が秘め続けた想いを長い手紙に綴っていく、一見単調な切り口の恋愛小説だ。

しかし、動物的センシュアルな気配は幕開けから洗濯槽の洪水の中に漂流していて、その中からひたひたになって出てきた活字型のメロディーは、洗濯鋏に挟まれて風がそよぐごとに甘美な音をたてていた。

 いやいやそんなわけ、と思っているうちに、いつの間にか氾濫している官能小説の洪水に肩まで浸かっていたわけだ。

 こんな体験は初めてだった。

不快さはなく、むしろ受け入れてしまえば心地よい。

酸素を含んだ身体で仰向けになり、ぷかぷかと水の流れに身を任せているような、極めて高い描写力によって私は安心感に包まれていた。

 

一方表題作の『最高の任務』は、大学の卒業式を前にした「私」が、小学生の頃から続けていた日記帳を紐解いていく、心温まる物語である。

卒業式の日、家族から秘密だらけの卒業旅行に連れ出されることになった「私」は、その手掛かりを探るために開いた日記帳の中で、大好きだった亡き祖母との思い出を振り返っていく。

果たして秘密の家族旅行はどこへ終着するのだろうというワクワクと、祖母離れできない「私」の切ない想い、そして、ふいに挟まれる肉感的描写への動揺が、交互に私の手を握る。

彼女たちが向かった旅の終着点へ、私も行ってみたいと思った。

 

そんな二作を並べると、「書く」という行為には何か特別な力があるのだと信じたくなってしまう。

「手紙」と「日記」、どちらの「書く」にも、すっかり心が洗われた気分だった。

読んだらきっと好きになる。乗代雄介という男は、言葉の奇術師みたいな人だ。

 

 

@ながれ